First contact:side.Capricorn


 十二宮の階段は長い。
 けれど身体を鍛えた聖闘士にはさして苦にもならず、任務帰りの今も、パーンはその足を止める事無く教皇の間を目指していた。
 いつもと変わらぬように見えて、どこか浮き立っているような十二宮の雰囲気に、僅かに眉をしかめる。
 自分が聖域を離れている間に、何か慶事でもあったのだろうか。
 そんなことを考えているうちに双魚宮につき、教皇の間に行く前にと表情を引き締める。
 通るぞと声をかけようとした瞬間、踏み出そうとした左足に外側から小動物か何かが当たったような、軽い衝撃が走った。

「わっ!」

 同時に、小さな子供特有の、拙い高い声が上がる。
 小さな、子供の。
 パーンはぎこちない動きでその声の方を見下ろすと、艶やかな濡羽色の髪を揺らした、ほんの三歳ほどの幼子が石畳の上に座り込んでいた。
 すっきりとした切れ長の目が何度か瞬いて、理知的な紫紺の瞳がパーンの深緑と合わさった。

!」

 パーンがどうしようもなく固まったその時、宮の中からアフロディーテが慌てて駆け出してきて、パーンと幼子――というらしい――が向かい合っているのを見て、音を立てて固まる。
 山羊座のパーンは、お世辞にも優しい顔立ちをしているとはいえない。
 どちらかと言うと、厳めしい顔立ちで、その上表情筋も固く常に無表情なものだから、子供受けは大いに悪かった。
 視線を合わせれば泣き出されることはざらで、時には逃げ出される事すらある。
 パーン自身子供は好きなのだが、彼の顔を怖がって子供の方が近づいてこないのだ。

――ああ、ほら泣く、もう泣く、今すぐ泣く!

 パーンとアフロディーテ、大人二人の心の内は全く同じ言葉で占められた。
 しかしそんな大人たちの予想を裏切って、幼子はきょとりと小首を傾げて立ち上がり、パーンをじっと見ながら申し訳無さそうな顔をして。

「んっと……ごめんなさい」

 謝った。
 紫紺の瞳が潤む気配は無い。
 今までに無い反応にパーンは内心大いに戸惑い、アフロディーテは安堵に胸を撫で下ろした。そして幼子の謝罪に反応しない山羊座を睨む。
 僅かに殺気を孕んだ魚座の小宇宙に我に返ったパーンは、表面上では判らないながらも戸惑ったままに、ああ、とだけ返した。
 空を見上げるように顎を反らす幼子に、今のままではひっくり返りそうだとパーンは膝をついて目線を合わせた。それでも、幼子の方が小さいのだが。

「…怪我は無いか」
「だいじょうぶ、です」
「そうか」

 こくりと頷く。
 あまりにも会話が続かずは反応に困り、アフロディーテは相変わらずだと首を横に振った。
 パーンは恐る恐るの頭を撫でながら、二つ上の宮の主を見上げる。

「アフロディーテ、この子は……」
「言っとくけど攫ってきたわけじゃないからね」
「そうか」

 妙に力の入った声と笑顔で言い切るアフロディーテの額には、青筋が浮かんでいた。その反応に、やはり間違えられたのかと納得し、ヘタに刺激して魔宮薔薇を投げられないためにも無難に頷いておく。
 口をへの字に歪めたアフロディーテはふんと鼻を鳴らし、幼子を抱え上げた。パーンもそれにあわせて立ち上がる。

「この子は。この間の任務先で拾ってきたんだ」
「…従者にでもするのか」
「いや。、自己紹介できるかな」

 とろけるような笑みのアフロディーテに、は反射的に笑い返しながらこっくりと頷く。

「サジタリアスこうほせいのです。アフロディーテのでしです」
「山羊座のパーンだ」

 射手座の候補生。
 思ってもみなかった単語に目を見開きながら、己の名も明かす。待ちに待った、けれども現れてほしくはなかった射手座の次代。その出現は女神の降臨を始めとした何らかの事が起こる前兆でもある。
 地上を愛し人を愛する心優しき女神のため、この身を槍と成し盾と成し、戦う事は聖闘士としての宿命ではあるものの、このような幼子が血に塗れた戦場へ続く道を歩む事を考えると、酷くやるせない気持ちを覚えた。

「頑張れ」

 力を入れれば簡単につぶしてしまいそうで、ガラス細工に触れるかのように細心の注意を払って幼子の頭を撫でる。
 幼子はくすぐったそうに首をすくめ、にっこりと愛らしい事この上ない笑みを浮かべた。
 初めて小さな子供に正面切って笑いかけられたパーンは眩しそうに目をすがめ、知らず知らずのうちに顔をほころばせる。
 ほぼ初めてと言っても過言ではない山羊座の笑みに、アフロディーテは目を見張り、心中で可愛い可愛い己の弟子を絶賛した。
 パーンの顔を見て泣き出さなかった子供はが初めてだが、彼を笑わせるという偉業を成し遂げたのもが初めてだ。
 とんでもなく貴重な光景を見た。これはぜひとも宝瓶宮の主に教えねば。ついでに蟹にも。
 にんまりとイイ笑みを浮かべ、アフロディーテは決心する。
 それが原因となり、これを機にいわゆる笑顔の練習をするようになったパーンが、その練習中にエリアーデに突撃をかまされ、彼(彼女?)の腹筋が引きつるほど大笑いされる事になるとは、己に向けられた幼子の笑みに感動に浸っている山羊座には、このときはまだ知る由も無いのだった。