たかが風邪、されど風邪



 体が重い。頭がぐらぐらする。
 心なしか熱いような気がする吐息を零し、は片手で額を押さえた。

「ママ?」
、どうかした?」

 ルヴィオラとアルバフィカが、似たような仕草で小首をかしげる。それに、いや、と返しながら、は腕をさすった。
 もう夏も近く、動けば汗ばむほどの陽気だというのに、今日はやけに寒く感じる。影の中にいるからだろうか。
 ふぅっと再び息をつき、じっと見つめてくるルヴィオラの頭をくしゃりと撫でた。スキンシップが大好きな幼子は、それだけでご機嫌になる。けれどアルバフィカはから視線をそらす事無く、顔を顰めた。

、休んだ方がいいよ。顔色が悪い」
「大丈夫だ。……確かにちょっと、体調が悪い気がするが」

 休むほどではない、と首を横に振る。おそらく、昨日の任務の疲れが出ているのだろうと、は何時もの数倍は遅く回転する思考の中で思った。
 険しい顔を崩さないアルバフィカにもう一度大丈夫だと笑いかけ、立ち上がる。木の葉の隙間から見える空は透き通るブルーをしており、丁度中央辺りに黄金に輝く太陽を抱え込んでいた。腹はすいていないが、もう昼だ。しみるほどの光に目を細め、ヒマティオンに付いた草を払う。

「さぁ、かえる……」

 ぞ、と。最後まで言い終える前に言葉が途切れる。急に目の前が真っ黒に染まり、平衡感覚を失った。地面の感触が全く分からなくなり、まるで宙に放り出されたかのような不安定さに、思わず息が詰まる。あぁ、倒れる、とどこか冷静な思考回路の中呟く。ふつりと途切れた意識の片隅で、酷く焦ったようなアルバフィカの声を聞いた気がした。





 ぐらりと、少女の体が傾ぐ。一瞬何が起こったのか理解できなかったアルバフィカは、けれども次の瞬間、自分でも驚くほどの素早さで正常な思考を取り戻し、慌てて固い地面に倒れそうになった少女の身体を受け止めた。布越しに触れた身体は酷く熱く、完全に意識が無いのかぐったりと四肢を投げ出していて重い。

ッ!?」

 悲鳴のような声を上げて覗き込んだ顔は血の気が引いていて真っ青で、そのくせ吐き出される息は荒く熱い。額に触れてみると、手が焼けそうなほどの熱を持っていた。

「あ……」

 ぞくりと、恐怖が背筋を撫で下ろす。その時頭によぎったのは、が死んでしまう、という不吉な、不吉すぎる言葉だった。魂の奥底から這い上がってくる恐怖に、思考が白くなる。

「ぅああぁぁぁんっ!」

 世界が無音のうちに崩れかけた時、子供特有の甲高い泣き声が視界を開いた。忘れていた呼吸を思い出し、すっと息を吸うと、世界に音と色が戻ってくる。
 朱色の髪の幼子が、とアルバフィカの眼前に立ち、大きな声を上げて泣いていた。ぼろぼろと、ラズベリーレッドの大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちている。何が起きているのか分からない不安と、アルバフィカが内側に満たした絶望にも似た感情を感じ取ったことで、恐怖を覚えたのだろう。
 全身に走る恐れはそのままに、頭の芯がすっと冷えた。を人馬宮に運ばなければ。幸い、ここ天蝎宮は、人馬宮の一つ下だ。動かしても、にはそれほど負担にはならないだろう

「ルウ、大丈夫、大丈夫だから」

 片手でを支え、片手でルヴィオラを抱きしめて、己に言い聞かせるように、何度も大丈夫だと繰り返す。そしてすぐにクラレットへとテレパシーを飛ばし、カナリアを呼んだ。焦る心を、懸命に抑えて。






 十二宮は俄に慌しくなった。医師を呼ぶ声に、従者達の駆け回る音。倒れたを心配する声。
 特に元魚座たる彼女の師、アフロディーテは凄かった。血の気の引いた顔での寝室まで駆け込んできたかと思うと、ベッドの中で高熱に喘ぐを認めた途端、言葉も無く崩れ落ちてしまったのだ。その顔色は土気色に近く、よりもむしろ彼の方が危ないのではないかと思わせるほど。アフロディーテはその後来たデスマスクに引き取られていったが、の傍にいると言って聞かなかったため、現在逗留している巨蟹宮よりも人馬宮に近い双魚宮に待機していた。
 そんなこんなで、次々との様子を伺いに十二宮の住人が訪れる中、病に侵された当の本人はというと、昏々と眠り続けた。そのおかげか日が経つごとに少しずつ熱は下がっていったものの、一度として目覚めることは無く、もう目覚めないのではないかという不安の中、三日経っていた。




 咽喉がひりひりする。口の中がカラカラだ。
 浮上しつつある意識の中でが感じたのは、久しく感じていなかった渇きだった。重いまぶたを持ち上げ、かすむ視界に何度か瞬く。やっとはっきりした視界の中で見えたものは見慣れた天井で、いつの間に寝たのだろうと内心首を傾げた。

「人馬宮様?」

 重い身体を動かす気になれず、天井を見上げたままでいると、囁くような声音が耳に入った。この落ち着いた声色はクラレットのものだ。

「――……」

 クラレット、と。声を出そうとしたが言葉にならず、咽喉が痛んでヒューッと息が漏れただけだった。咽喉に突き刺さるような不快感に顔を顰めると、息をつめてを見つめていたクラレットが慌てて枕元に立ち、主を覗き込んだ。

「あぁ、無理をなさらないでください、人馬宮様。すぐに水をお持ちいたしますゆえ」

 労わりに満ちた従者の言葉に、はこくりと一つ頷く。確かに返ってきた返事に、クラレットは安堵の涙で瞳を潤ませ、一つ礼をしてから浮き立つ足で厨房の中へと入っていった。その背中に、何故そんな大げさな反応をと、まだ霞がかった頭でぼんやりと考える。
 呼吸をするだけでも僅かに痛むのどに手を当てようと腕を上げると、右手に何かが引っかかったよな感覚がした。くんっと引っ張られているような感覚に、頭を僅かに動かして手の先を辿ってみると、白く細い指がしっかりとの指に絡んでいた。腕の傍には、鮮やかな浅葱色の髪が散っている。顔の大半はシーツと髪に埋もれていて見えてはいないが、僅かに覗く目元には、疲労が滲んでいた。
 手を抜こうとして痛いくらいの強さで握りなおされた指に、何故気付かなかったのかと疑問符を浮かべながらも、頭の片隅では、体温と感覚が馴染むほど長い間握られていたからだろうと、答えは出ていて。
 胸に広がる安心感と共に、縋るように絡められた指を、そっと握り返した。

「ずっとそうして傍についていらしたのですよ」

 優しい眼差しで伏せた浅葱の髪の少年を見るに、クラレットは目元を和ませて言い添える。
 クラレットの差し出す水差しに口をつけて咽喉と口の中を潤してから、かすれた声で「ずっと?」と言葉を反芻した。思っていた以上にがさついた声と痛んだ咽喉に顔を顰めるに、クラレットは頷く。

「はい。人馬宮様は三日も眠っていらしたのですよ。その間ずっと、双魚宮様は手を握って」
「三日……」
「高熱を出して倒れられたのです。覚えていらっしゃいませんか?」

 高熱。
 口の中でその単語を転がして、目を見開く。そして、意識を失う前に感じた、悪寒やら体の重さやらを思い出して、あぁ、と納得した。あの最悪な体調は熱の所為だったのだ。自覚した途端どっと体が重みを増したような気がして、ふと吐息を零した。

「お苦しゅうございますか?」

 吐き出された溜息を聞きつけて、心配そうに顔を歪めたクラレットがそっと尋ねる。はいや、と吐息混じりに否定を返し、苦笑を浮かべた。

「倒れる、前よりは…マシだ」
「そうですか。それならばようございました。次からはどうかお気をつけあそばしませ。クラレットは胸が潰れるような思いを致しました」

 もちろん他の方々もです。
 そう言って顔を顰めるクラレットに、は大人しく頷いた。今回は全面的に自分に非が有ると認めているからだ。
 高熱を出して昏倒などという無様な姿を晒すはめになったのは、十中八九前回の任務の際にずぶぬれになったまま長時間放置していたからだ。帰ったときですらクラレットを始めとした十二宮の面々に悲鳴を上げられたのだから、倒れた時の反応たるや凄まじいものがあったのではなかろうか。
 何だか容易にその様子が想像できて、は深々と息を吐いた。若干顔を引きつらせながらも、ぎゅっと握られたアルバフィカの手を親指で撫でる。

「クラレット、師匠たちは?」
「アフロディーテ様でしたら、巨蟹宮様と共に双魚宮にいらっしゃいます」
「そうか……」
「人馬宮様が倒れられたと聞いて駆けつけていらしたのですよ。人馬宮様よりもよほど酷い顔色をしていらっしゃいました」

 そして、日に何度もの様子を伺いに来ていたと聞いて、嬉しいような呆れたような、複雑な心地になった。その思いが顔に出ていたのか、クラレットが微笑ましそうに笑う。

「アフロディーテ様だけではございませんよ。白羊宮様や獅子宮様、天蝎宮様方も、入れ替わり立ち替わりお見舞いにいらっしゃいました。おかげで厨房には見舞いの品が溢れかえっております」
「心配を…けた、みたいだな」
「それはもう」
「そう、いえば……ルウは、どうした」

 上げられた名の中にスーラのものがあったことで、倒れる直前までルヴィオラの子守をしていたことを思い出し尋ねる。そして居間へと流された視線を追って、彼女を見上げた。

「……いるのか?」
「はい。よほど驚かれたらしく、どうしても傍にいると泣きながら仰られて……。双児宮様と一緒に」
「スーラ、様も……ルウの涙には、勝てなかったか」
「御意にございます」

 笑いを含んで頷くクラレットに、は微笑する。
 渇いた咽喉にもう一度水を流し込み、一つ息をついた時、の手を握り締めていた指がぴくりと動き、ベッドに預けられた上半身が身じろいだ。至極眠そうに長い扇状のまつ毛が上下し、そう間を置かず慌てた様子で勢いよく身を起こした。そして一番にへと視線をやり、大きく目を見開き、唇を震わせる。言葉が出てこないのか何度も口を開閉し、くしゃりと顔を歪めたかと思うと、仰向けに寝たままのにのしかかるように抱きついた。
 視界の端でクラレットが礼を取って部屋から出て行く。扉がしまる音を呑み込んだ沈黙を、アルバフィカの声が切り裂いた。

、よかった……!」

 そっと抱き返した肩は震え、声は涙に濡れていた。たかが風邪ごときで大げさな、という戸惑いを持ちながらも、自分が倒れた場面に直面し心配をかけたのだから当然かと、ただ黙ってアルバフィカの肩を撫でる。

「なかなか熱が下がらなくて、ず…ずっと目を覚まさなくて……っ、が、が……っ!」

 死んでしまうかと思った。
 アルバフィカの口からその言葉が出る事は無かったが、触れ合ったところから悲痛な叫びが流れ込んできたような気がした。

「死なねぇ、よ。たかが、風邪だ」
「ただの風邪でも、死ぬ人は死ぬんだ……」

 縋りつくようにまわされた腕の強さと、それに反比例するかのような弱々しい声に、ははっと息を呑んだ。
 この、医療がまだ確立しているとは言い難い時代、現代人にとっては「ただの」という認識しかない風邪でも命を落す事はそう珍しい事ではなかった。特に体力の無い子供や老人は危ない。大人でも、医者にかかる事が出来なければ、命を落すこともあるのだろう。
 貧困層で生まれ育ったアルバフィカは、そういった風邪で命を落す者達を多く見てきたのだろうと思い当たって、迂闊な発言だったかと顔を顰めた。そして、そんな環境の中で三日間も昏睡していた自分の現状に、背筋が寒くなる。一つ間違えれば本当に命を落としていたかもしれなかったのだ。目覚めた時に見たクラレットの大げさなほどの安堵は、至極正しい反応だったのだろう。
 どくりと跳ね上がった心臓を宥めて、安堵と、短くも長くも感じた三日間の恐怖を思い返して涙を零すアルバフィカの背に腕を回し、優しく抱きしめた。



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 刹那様、リクエストありがとうございました。ご本人様に限り、お持ち帰り自由です。
 主人公が風邪を引いて倒れる話、ということで、こんな内容になりましたがどうでしょうか。周囲の人の反応、というよりも、アルバフィカ中心の話になってしまってますね(汗)
 ご希望の半分も満たせていないような気が致しますが、ご容赦ください。
 こんな作品ではございますが、受け取っていただければ幸いです。

 えー、作中にある医療の確立が云々というやつは、信用しないでください。現在の医療に近づいてきたのは18世紀後半くらいかららしい、ということは分かっているのですが(初の虫垂切除が1763年)、風邪についてはどうにも……。そんなわけで裏は取れていないのです。でも風邪を甘く見ると肺炎を起こしたりして危ないので、こういうことに。医療に詳しい方、間違っていてもどうぞ目をつぶってやってください。
 のろのろと亀のようなスピードで進んでいる本連載でございますが、これからもどうぞ気長にお付き合いくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。


 秋月しじま