その心で求める存在は、



 おかしい。変だ。
 手元にある書類を捌きながら、は眉間に皺を寄せた。ここ最近はよく見る光景ではあるが、大神官の珍しい表情に、彼に仕えている者達は心配そうに視線を交わす。そんな彼らを視界の端に置き、余計な心配をかけていると思いながらも、は溜息を禁じ得ない。書類に決済の判を押し、難しい顔のまま眉間を撫でた。
 声が聞こえない。ずっとを呼んでいた、愛しい愛しい半神の、ウンディーネの声が。世界を隔ててさえはっきりと耳に届いた呼び声が、こちらに来てからはぱったりとやんでいるのだ。最初のうちは、それほど気にしていなかった。とて肉体の年齢が五歳で、シルフとして覚醒したばかりだったから。己の伴侶もまだ覚醒に至ってはいないのであろうと、気にはなったものの、そう自分を納得させた。そうして一年経ち二年経ち、ちらほらと鱗衣に導かれて海闘士が集まってくる中で、ウンディーネは覚醒するどころか、魂の気配すら掴めてはいない。
 シルフとウンディーネは三年と離れず生まれてくるので、この世には必ず存在している。その上、伴侶であるシルフの覚醒の影響を受けてそろそろ覚醒を迎えていてもいい頃合だというのに、だ。
 考えられる事は、何処かの神の結界内に閉じ込められていて身動きが取れないか、最悪の場合は既に死んで――もしくは何者かに殺されて――しまっているか。
 己の中に浮んだ最悪の想定に一瞬ぞっと背筋を冷やし、ゆるゆると首を振った。半神の身に何かあれば、例え神の結界内に囚われていようと分かる。己の伴侶との絆の強さを、は疑ってはいなかった。ならば、可能性としては前者か。自分の足で探すしかない。海界の住人はそうそう地上に出せないし、覚醒前のウンディーネの存在をしっかりと認識できるのは同族で半神たるのみだ。何より、最愛の伴侶の問題を、他人任せにしたくはない。
 紙面に下ろしていた視線を上げたの目には、強い意志の光が宿っていた。ガタリと音を立てて立ち上がる。

「大神官様、どちらへ?」
「ウンディーネを探してくる」

 大神官の略装の上に外套を羽織り、口元に強気な笑みを浮かべる。その顔に先ほどまでさしていた憂いの影は無く、室内にいた神官や海闘士は安堵と共に、幼い姿をした風の王に頭を垂れた。

「いってらっしゃいませ」
「お気をつけて」
「ああ。……心配をかけた」

 扉の閉まる音に隠れるようにして呟かれた言葉に、部下達は嬉しそうに頬を緩めた。そうして明るくなった空気を背に、は苦笑を浮かべる。下にいるものには、上に立つものの影響が出やすい。理解しているつもりではあるが、実行できなければ意味などないのだ。まだまだ己は未熟だ。それを実感する。は一度クツリと咽喉の奥を鳴らして自嘲し、風を身に纏った。
 肩の辺りを過ぎた金赤の髪が煽られ、外套と略装の裾が翻る。の小さな体を浮き上がらせた風は海を割って空へと一気に吹き上がり、一瞬でその身を上空へと移動させた。
 日差しに煌く紺碧の海原に頬を緩め、そっと目を閉じる。隅々まで神経をいきわたらせ、身の回りで渦を巻いていた風を走らせた。の意を受けた風の精霊達は、王の目となり耳となって世界中を駆け抜ける。けれども、やはりウンディーネを見つけることは出来ず、やはりという思いと落胆に息を吐いた。やはり何れかの神の結界の内かと目を細める。
 アテナイに本拠地を持つ女神を筆頭に、地上の神の守護領域には干渉できない――いや、してはならない決まりになっている。それは海皇の抑止力として、そして右腕としてある事を決められた神代の時代に結ばれた約束だ。結ばれた当初は別段不便な事も無かったので素直に従ったが、こうなってはその約束は枷にしかならない。だがしかし、海皇以外の神の影響下にウンディーネの身があるのならば。

「不干渉の制約をたがえたのはあちらが先。よって我が伴侶を我が手に取り戻すにあたり、その縛りは何の意味も持たない」

 呟きながら、先ほどのものよりも遥かに強い意志と力を乗せた風を再び走らせた。ニィッと口角を吊り上げる。

「見つけた」

 たゆたう波、清々しい水の香り、愛しい愛しい伴侶の、ウンディーネの気配。その波動はひどく微弱なものであったが、確かに彼女のものであった。幸福にとける表情の中、光を受けて金色に煌く瞳だけが冷たくギリシアを見つめていた。