舞台袖は幕間にさざめく



 久しく聞いていなかった足音が聞こえる。
 本来ならばもうこの世にはありえなかったはずのその足音に、愛するドンナの為に書類を整理していた手を止めて、ヴェルデは珍しくもそっと笑みを浮かべた。
 机の上に書類を重要な順に置き、重厚な雰囲気の年季の入った扉に視線を向ける。それと同時に足音が止まり、扉が開いた。

「よお」

 ひらりと片手を上げる、その姿。
 あまりにも代わり映えのないその様子に、嬉しいやら腹立たしいやらで、ヴェルデは口をへの字に曲げた。

「久しぶりに会ったのに、そんな顔しなくてもいいだろーが、ヴェルデ」
「貴方の所為だろう。死んだと思ったら生き返って、生き返ったと思ったらまた死んで。かと思ったらまた生き返って。まったく忙しい人だね」
「俺に言うな、俺に。文句ならあの女に言え」
「わがまま小娘を相手にするほど暇じゃないよ、僕は。そんな暇があったら、研究でもしてるさ。それに文句ならママが直接言ってるし」
「ああ、確かにありゃ傑作だったな」
「そりゃそうだろうね」

 面白そうに笑う男に、ヴェルデも同意して笑みを浮かべる。
 こうして目の前で笑っている男が死んで、彼らのドンナは見ている方が痛くなるほどの嘆きようだった。連日、目を腫らしていない日がないほどに。彼女の元から最愛の兄を連れ去っただけでも憎いと言うのに、あの短く長い日々ほど、彼女の守護者達が地上を守ると豪語する女神を恨んだ事はない。
 良かった事といえば、彼をこうしてこの世界に帰してくれたことくらいか。いかに自然の摂理に反した事象であり、彼が選んだ道への冒涜ととれようとも、その点だけは感謝してやってもいい。
 ヴェルデはそこまで考えて、そういえばまだ言っていない言葉があったことに気付いた。

「ああ、トラスパレンテ」
「何だ?」
「おかえり」
「……おお」

 はにかんだ表情で告げられた言葉に、デスマスクはにかりと笑みを浮かべ、ヴェルデの銀色の髪をくしゃくしゃと撫でた。






「お兄様!」

 ぱたぱたと軽い足音が聞こえたかと思うと、弾んだ声とともに、先程デスマスクが開いた扉が勢いよく開けられる。
 何時もの如く白いスカートを翻して駆け込んできたは、その透き通るような美しい頬を薔薇色に染めて、振り返った最愛の兄に飛びついた。

「っと、飛びついたら危ないだろうが、
「お兄様ならば大丈夫です。わたくしごときでは吹き飛ばされる事なんかありませんわ」
「そりゃまぁ鍛えてるからな」

 頬を胸元に摺り寄せ、無邪気な笑顔で見上げてくる妹に、デスマスクは苦笑を浮かべながらもそれだけを返す。こんな可愛らしい顔をされたら、彼女への説教も胸のうちで止まってしまって出てきはしない。
 そんな二人に相も変わらず相思相愛な兄妹だとヴェルデは内心で呆れながらも、浮かんでくるのはただただ優しい笑みと想いばかりであった。もう二度と見ることのできなかったはずの彼らのやり取りを見ることができて、思いの外嬉しいらしい。いつもどこか冷静な思考で以って、彼は己の感情をそう自己分析する。
 まぁなんにせよ、現状はこれ以上ないほどに良いと言っても良かろう。

「ママ、今日の仕事はもう終わりだってネロに伝えてくるね」
「ええ、お願いいたします。ありがとう、ヴェルデ」
「どういたしまして」

 少女のような笑みの中に、慈母の気配を滲ませるに、小さな子供のような笑みを浮かべて、ヴェルデは兄に抱きつきながらも己の髪を梳く細い指を取り、その指先に口付けた。
 彼と顔見知りのアルコバレーノ達が見たら、あまりのその無邪気さに愕然としただろうが、彼らにとっては全く以って日常的なやり取りであるからして、それはあまりにも自然に流される。むしろファミリーの人間にとってはそれが当然であった。ドンナを母のように慕い、行き届いた気遣いを見せなければヴェルデではない。
 足取りも軽くドンナの執務室から出て行く少年の後姿を見送り、はそっと兄から身体を離す。そして、ソファへと兄を促し、自分はその隣へと腰を下ろした。

「改めて、お帰りなさいませ、お兄様」
「おう、ただいま。こっちは相変わらずみたいだな」
「ええ。最近は抗争もありませんし、小競り合いがいくつか起きている以外では、至って平和なものです」
「サガにとっちゃいい環境だ」
「そうあるように努力させていただいております。お会いになられますか?」
「ああ、後でな。それよりも」

 すっと、笑みを浮かべていた表情を引き締め、真剣な眼差しで妹を見る。それに倣うようにして、も居住まいを正し、真剣な表情で背筋をぴんと張った。

「聖域の対応、ですわね」
「ああ。あの女の許しがあっての蘇生とはいえ、サガは――俺らもだがA級戦犯だ。ここにサガを預けることはあの女が決めたことだが、女神の目の届かぬところに置いておくわけにはいかないって意見が出てな」
「目をこの屋敷に送り込もうという動きが出ましたのね。まぁ、予想通りです。問題はありませんわ。それで、あの小娘は当然却下したのでしょうね?」
「しっかりきっぱり、な。一応定期的に俺らが様子を見に来るって事で決着が付いた」
「あら、一悶着あったんじゃございません?」

 ころころと、その場面を想像したのか、が声を立てて笑う。
 デスマスクも唇を笑みの形に歪めた。

「そりゃな。俺らも戦犯ですし。でもサガは腐っても黄金聖闘士だ。青銅や白銀の連中じゃ万が一の場合対応できねーってんで、最初は俺たち以外の黄金連中を寄こそうとしてたがな。お前の兄貴って立場を思いっきり振りかざして横取りさせてもらいました」
「まぁ。わたくしは嬉しい限りですけれど、よく許可が出ましたわね」
「最後はあの女の鶴の一声だ。最初にお前に怒鳴り散らされたのが効いたんじゃねぇの?」
「お兄様……」

 心底愉快だと笑う兄に、妹は恥らって頬を染める。
 あの時城戸沙織という少女を怒鳴り散らした事を後悔などしてはいないが、後先考えずに感情のままにとってしまった行動は、組織のトップに立つ人間として褒められた事ではない。あれだけ怒鳴り散らしておいて、自分の言動は矛盾しているのだ。恥ずかしい事この上ない。
 それは言わないでくれと無言の抗議をする妹を、兄は気持ちいいほどに無視した。

「ヴェルデとも話してたんだがな、なかなか格好よかったぜ。敵対した連中だって、あの女に直接手を出せた奴は少ない。それを張り飛ばしたんだ、すげーすげー!」
「もう、お兄様! からかわないでくださいまし」
「からかってなんかねぇよ。お前が言った事は俺らが言いたかった事だ。聞いててかなりスッキリしたって、そう言っただろ」
「そうですけれど……」

 ぷくりと頬を膨らませて拗ねてみせる妹の頬を、いかにもお兄さんの表情で苦笑して見せながら、ちょんとついて空気を抜く。
 ぷすっと間の抜けた音を立てて頬をしぼませて、は上目遣いに兄を見上げた。

「もういいですわ、お好きなように仰ってください。それで、これからはお兄様がサガ様の様子を見にいらっしゃるのですね」
「ああ。ま、俺だけとは言い切れねぇがな」
「ディタ兄様とシュラ様ならば大歓迎ですわ。サガ様の様子を見るだけではなく、いつでも遊びにいらしてくださいとお伝えくださいまし」
「了解。あいつらもお前に会いたいだろうしな」
「光栄ですわ。……でも、他の方々も来るのでしょうね、きっと」
「あー、サガは人気者だからなー」
「それが負の感情でないのならば、良い事ですわ。でも、もしこの屋敷に来ると言うのでしたら、絶対に苛めてしまいますわよ、わたくし」
「相変わらず聖闘士嫌いだな、お前」
「正しくはあの小娘を盲目的に崇めている連中が、です。お兄様が別格なのは当たり前として、ディタ兄様とシュラ様とサガ様は好きですわ」
「そこでなんでサガの名前が出てくるのかが不思議なんですけどね、俺は」
「あら、だって彼は被害者ですもの。お兄様方を巻き込んだ事実があれど、わたくしはあの子を恨めませんわ」

 ふふっとまるで母のような慈悲をその頬に浮かべる妹に、デスマスクは目を瞬かせる。
 この妹の内面に菩薩と夜叉が仲良く同居している事は知っていても、こういう所は相も変わらず理解しがたい。しかも十も年上の男を捕まえて「あの子」ときた。確かにこの妹の精神年齢は、そこいらの大人と比べると遥かにしっかりしてはいるが。

「お忘れですか? お兄様方がサガ様につくときに背中を押したのは他ならぬわたくしでした」
「ああ、そうだったな。それにしてもあの子、か」
「ええ。あの子、としか表現できませんわね。ここ一週間ほどのサガ様を見ていると」

 ここ一週間のサガ。
 そういえばそれくらいになるか、とデスマスクは目を細める。
 彼が妹の下に預けられてから、聖域では毎日のように彼の監視を誰にするかと言う題目の会議が毎日のように繰り返され、喧々囂々と神官やら黄金聖闘士やらが意見交換と言う名の怒鳴りあいをしていた。あんなにも姦しくムダに長い――ムダに長引かせたとも言う――会議を経験したのは初めてで、かなりの時を消費したように感じていたが、まだそれだけしか経っていないのだ。
 いや、一週間も、と言えばいいのだろうか。

「サガは落ち着いたのか?」
「大分」
「そりゃ上々。会議を長引かせた甲斐があったな」
「お疲れ様です。それでサガ様のご様子ですが」
「ああ」
「食事を取られる時や入浴などの時間を除けば、ほとんどの時間を睡眠に費やしていらっしゃいます。時折悪夢を見ることもあるようですが、それ以外は至って穏やかな眠りの中にあるようですわ」
「身体に異常はないんだな?」
「はい。問題は精神面だけだと、オロも言っておりました」
「あの姐さんが言うなら、間違いはねぇな」

 切符のいい一児の母でもある女医の姿を思い浮かべ、デスマスクは頷く。何せあの十三年間も世話になっていたのだ。どの医者よりも、サガの肉体精神の両面に渡って知り尽くしている。
 シュラの思いつきはドンピシャだったわけだ。これがあの聖域、そしてあの女の側では、こうもうまくいかなかっただろう。
 
「お兄様、サガ様のところへ参りますか?」
「あー…頼めるか?」

 一瞬戸惑って、デスマスクは妹の提案に頷く。今はできうる限り聖域とは隔離して静養してもらいたいが、一応この目でサガの様子を見ておいた方がいいだろう。それが求められているという事もある。
 は一度首肯して立ち上がり、軽快なステップを踏むかのような足取りでふわりとスカートの裾で円を描いて、兄の手を取り立たせた。
 そのまま、兄のたくましい腕にしなやかな腕をするりと回し、ぬいぐるみでも抱くかのようにぎゅっと抱きしめて。

「ではご案内いたします」

 この上なく愛らしくも美しい、極上の笑みを満面に浮かべた。



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 サガの様子を見に来たお兄様と、大好きなお兄様の訪問に舞い上がってる妹と、相変わらずだなーと思ってる部下。
 これがこの兄妹の日常です。放っておくと多分ずっといちゃこらしてます。どこのバカップルですかと言いたいくらい。ずーっと妹がお兄様お兄様言ってるので分かりにくいですが、デッちゃんも充分シスコンです。
 しっかし、相変わらずぼろくそ言われてますね、女神。いや、言わせてるのは秋月ですけど。

 そういえば何気に初出演なリボーンのキャラクター、アルコバレーノのヴェルデ君。原作では大人だったのが子供になってますが、ここでは最初から赤ん坊で成長していってる設定で。
 デスマスクが彼に「トラスパレンテ」と呼ばれていますが、これは彼のファミリー内でのコードネームみたいなものです。地位みたいなものだと思ってください。(〜の守護者、みたいな)
 ちなみに意味はイタリア語で「透明」で、彼の立場をボンゴレで当てはめれば、門外顧問あたりに当てはまります。